インタビュー / 笠井 紀美子

笠井紀美子は、ジャズの世界において日本発のレジェンドである。日本の初期ジャズシーンを飾った女性の一人であるが、国内の代表的ミュージシャンだけではなく、下記のような世界的な著名人と、30年間に及んで活動した. Paulinho Da Costa, Gil Evans, Stan Getz, Lee Konitz, Ted Macero, and Mal Waldron. 第二次世界大戦後に新生した日本のジャズから、1980年代の経済的バブル時のCity Popまで。私よりずっと礼儀の正しい妻の言葉では、笠井紀美子はまさに「日本の宝」と表現されるだろう。笠井紀美子の殆どの作品は日本でしかリリースされなかったものの、Jazz Dance や Rare Grooveのクラッシックとして、今日、世界中で大人気だ. Use Me, Love Celebration, Mmm Mmm Good, I Thought It Was You. リストの最後の曲は、1979年にリリースされたLP Butterflyの中の作品であ。Herbie Hancock のカバーで、Herbie Hancock自身により収録されたこのレコードが、Be With Records により、なんと奇跡的に再リリースされる。

お住まいはどちらですか。

米国 カルフォルニア州のサンタモニカです。

ご出身はどちらですか。

生まれ育ったのは京都ですが16歳から長く東京に住んでいました。

いつ、そして何故、米国に移住なさったのですか。

より良いVoice Teacherに師事する為、英語圏で英会話を身に着ける為1978年に移り住みました。

歌の才能に気付いたのは、いつですか。

只々 歌う事が好きで自分に才能が有るなど思った事はありません。

楽器は弾かれますか。

以前は少しだけやりましたが今は全くたしなみません。

ジャズに興味を持ったのは、いつですか。

13歳の時、京都の家にて夜試験勉強をしている時 たまたまラジオから流れてきたクリス・コナーのAll About Ronnieと言う曲を聞き電気に打たれたようなショックと感動を受けました。

ジャズを始めた時、特に気に入っていた・影響を受けたアーティストは誰ですか。

自分の個性を持ちつつ上手な歌手には 皆それぞれに影響うけましたが、その中でもサラ ボーン・カーメン マックレーなどは とてもしつこく聞きましたね。

笠井さんの最初のパフォーマンスは、いつ、どこで行われましたか。

質問の意味が分かりずらいのですが、と言うのも長年クラブで歌ってきましたが、それはクラブ・シンガーとしてのお仕事で名前も紹介されず何年か経って

ジャズ・クラブで歌えるようになって人が私を聞きに来て下さるようになったのはJUNK と言う銀座に有ったジャズ・クラブで1960年辺りだと思います。

1970年代の日本のジャズシーンについて、お話を伺わせてください。とてもエキサイティングでクリエイティブだったと思うのですが。

はい、そうですね!夜な夜なミュージシャン仲間がクラブに集まりセッションが始まり、又アメリカのミュージシャン達も自分の仕事のコンサートが終わるとやって来て 又セッションになるというジャズへの愛情と欲望に満ち溢れた時代だったと思います。

当時、日本でもっとも重要なジャズクラブはどちらでしたか。

Pit Inn, in Shinjuku, Misty, Max Hall. 

笠井さんの最初の収録は、どのように実現されたのでしょうか。

本当の最初のRecording経験は まだレコード会社と契約する前にピアニストで当時一緒に仕事していた世良 譲さんがボサノバのアルバム制作を頼まれてシンガーも必要と言う事で参加を頼まれました。でもKimiko Kasaiという事であれば最初のアルバムはコンサートの実況版でヤマハホールで収録されたもので、その頃のキング・レコードからのオファーでやったものと記憶しています。最初の自分のアルバムが実況録音盤とは、ビビったものです。

伝説的な日本のラベルThree Blind Miceで録音した時のお話を、伺わせてください。

確かあのアルバムは他のレコード会社の為に制作した一枚で 何年か後にThree Blind Mice が買い取られたものと記憶しています。

日本という伝統的な社会で、女性として、日本の音楽界で成功することは難しかったですか。

女性としてと言うよりJazzと言う音楽の認知度がその頃は世の中で低いものでしたから、忍耐・努力・練習、唯それだけが陽のあたる場所への道しるべだったように思います。でも、私は、音楽仲間、又 マネージャーに恵まれラッキーだったと思います。

日本の他の女性ジャズヴォーカリストと、ライバルとしての戦いはありましたか。

私は群れに入らず“わが道を行く”タイプの人間なので その様な事は無かったと思っています。(笑)

戦後から1980年代の経済的バブルまで、沢山の変革をご経験なさったとことと思います。

確かに時代はいろいろ変化を遂げていきましたが、いつも音楽にドップリ向き合うのみの毎日でしたので、あまり他の事は分析する時間も余裕も無かったように思います。

ピアニストのMal Waldron、アレンジャーのGil Evans、プロデゥーサーのTeo Macero、サクソフォニストのLee Konitz やStan Getz、パーカッショニストのPaulinho Da Costaなど、世界的に著名なジャズの大御所と一緒に働かれたかと思います。このような伝説的なアーティストとの思い出話など、ございますか。

勿論沢山有りますが、Gil Evans とのレコーディングは私がCBSソニーとの専属契約の最初のアルバムで緊張もかなり強いものでしたが、オーケストラ全員・私・エンジニア/関わる人全員がギルのアレンジ譜面と本人がスタジオにやって来るのを1時間半待ちました。ゴメン。ゴメンとギルがやって来て 出来たてアレンジの譜面を皆に配り、で、その頃はアナログの録音なのですが、音合わせ/リハーサルは2回ほどで驚き・ドキドキのままレコーディングに突入しました。物事はシンプルかつ素朴な時代だったのですね。。。。

Herbie Hancockとのthe Butterfly Sessionsについて、お話しを伺えますか。そもそも、このような協業のきっかけは? 仕事のパートナーとして、Herbieはいかがでしたか。収録の曲はどのように選びましか。

選曲はその時のソニーのディレクター/プロデューサーの David Rubinson, Herbie そして私の3人で行いました。もともとは Herbie のバンドが日本での公演が有り日本での Recording も持ち上がり 幸運にも一緒に音楽出来る機会を頂きました。その音楽の素晴らしさは勿論の事 表現力の豊かさに鳥肌がたったのを憶えています。とてもスピリチャルな方で彼が信仰している宗教の礼拝も隣のスタジオでご一緒しました。今もその幸運を感謝しています!

この度、Butterfly を再びリリースしようという依頼を受けたことに驚かれましたか。

はい、活動を辞めてから随分年月が経っているので 少し驚きました。

80年代半ばに収録を止めた理由はなんですか。パフォーマンスも止められたのでしょうか。

さまざまな理由が重なりますが音楽活動30年になったことや、毎日毎日365日朝夕2回の発生練習に縛られる生活形態を変えたくなった事や、自分にとって一番JazzがLiveであった時代に その様な実在する音楽家を生で聞けたり交流出来たりと濃い充実の30年で燃え尽きたのかもしれません。それに日本には“終わりの美学”と言う言葉と意識があります。静かに音楽活動全てに終止符を打ちました。

一緒に働きたかったミュージシャンは、他にいますか。

アレンジャーのクラウス オガーマン 彼の City Scape は 私にとっての大好きな永久保存版の一つで 今も時々聞いています。

笠井さんのジュエリーデザインのビジネスについて教えてください。いつジュエリーデザインに興味を持たれたのですか。

音楽活動している時も友人は写真家やアートデレクターが多かったので感性だけでの創作に興味を持ちました。別にジュエリーに特別関心が有った訳ではなく小さな創作物と言うところで惹かれたのでしょう。でも それも2年前に終了しました。

日本を訪れることはありますか。

勿論です、日本の四季の美しさは いまだに惹かれます。

どうも、ほんとにありがとうございました。

通訳をして下さった方にお礼申し上げます。

Kimiko Kasai`s Butterfly, featuring Herbie Hancock, is available now on Be With Records.

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